Thursday, January 15, 2009

デジタル情報の長期保存に暗雲(日経新聞)

『日経新聞』2008年12月27日朝刊「文化」欄に「学術資料や映像記録 デジタル情報の長期保存に暗雲 媒体に寿命 更新コスト莫大」という記事が載っている。

昨年10月に開催された国際シンポジウム 「デジタル知の恒久的な保存と活用にむけて―デジタルジレンマへの挑戦」の報告がメイン。例えば「品質でフィルムと同等の4k(画面を横4096、縦2160の画素で表現)のデジタル映画は、一本当たりの保管コストがフィルム映画の11倍にもなる」ため、最近ハリウッドでは保存用の映画をフィルムに焼き直しているらしい。このシンポジウムも「デジタルが最上と信じてきたが、『そんな問題があったのか』との思いに駆られて企画した」との由。

この記事の中で、我らが後藤先生がコメントを寄せている:
花園大学の後藤真専任講師は、「ハードディスクが稼働を始めて三ヶ月で二%の不具合が発生、五年で一〇%弱に達したとする、米国での調査結果がある」と話す。
新聞記事なので、後藤先生の発言や意図はかなり端折られていると想像する(私も経験あるので (^_^;;)。後藤先生のことだから、ハードディスクがどーのというような物理的な話がメインではなく、保存とはそもそもどんな行為か、みたいなこととか、史料論的なこととか、政策的なこととかを話したんじゃないかと思うが、そのへんは身内特権でご本人から聞くとしよう。

しかしまあ、ハリウッドの人たちの中には、「お前ら情報屋が『これからはデジタルですよ』なんて言うから高い金を払って設備投資したのに、今頃になって『デジタルは保たない』とか言うなよ、ボケ」なんて思ってる人もいるんだろうなぁ (^_^;; 善意に基づいているとは言え、自作自演と言われても仕方がない(ほかの業界でもよく見るけどね)。私も「デジタル万歳」的なことを発言したり論文に書いたりしてるので、片棒を担いでます。すいませんすいませんすいません。

もっとも保存だけがデジタルの目的ではなく、先の映画の例で言えば、ポストプロダクションとかでデジタルの恩恵(特殊効果とかね)を多分に受けているだろうから、トータルでデジタル化はプラスだったのかマイナスだったのか、評価をしなければならないんだろうけど。

2 comments:

ごとうまこと said...

 わざわざご言及いただきましてありがとうございます。意図については大きく端折られているわけではないですよ。
 そのうえで、あえて補足をするならば、デジタル化は、情報の活用・流通にとっては欠かすことのできないツールである、という点は大前提としてもっているとご理解ください。それを、前提とした上で。では、これらのデジタルデータを安易に「アーカイブ(ズ)と呼ぶことができるのか」という点に疑義を呈したのが、今回のコメントに出ています。
 たとえば、今までのような紙史(資)料だと、保存が第一義にあることが多かったわけです。その場合、保存は、「未来の誰か」への活用提供であるからこその保存であり、保存のための保存ではない(それはただの死蔵であり、史料所蔵者のエゴである)、という言い方をしてきました(少なくとも私はそのように主張してきた)。
 一方、デジタルデータが「情報定着」の主体を担うようになって以降は、活用だけが主張され、かつ近視眼的になってしまい、「未来の誰か」に伝えるという指向性自体(シンプルに解せば保存問題)を失っているのではないか、という、今までとは違った疑義を出す必要性が出てきました。その中でのハードウェア問題の一端についてコメントしたものだとご理解いただければ幸いです。
 「未来の誰か」という表現や、利活用と保存の問題はナイーブなところを含むので、詳しくは近日中に書く(予定の)原稿にて、書く予定です(と、師先生には負債があるはずなのに言ってみる。ごめんなさい)し、いろいろと、大学内でもお話できればと思っております。しかし、大略はそのような方向性であるとご理解いただければ幸いです。とりあえずではございますが、補足にて。

Anonymous said...

2009/01/17 當山日出夫

私の考えるところ、「保存」と「利活用」のバランス、ということに視点があります。

「保存」ということを最優先に考えるならば、ある意味で、「死蔵」になることを覚悟しないといけない。訓点資料における「白点」などは、その本を閲覧するごとに、物理的に減っていく(剥離してしまう)。浮世絵など、光をあてれば、おのずと退色します。であるならば、利活用のための、画像デジタル化、という方向に向かう。

また、これとは別に、大量の資料をデジタル化することによって、個々バラバラに保存されている資料からでは見えないものが見えてくる。これは、赤間さん(立命館ARCの浮世絵DB)の事例がそう。

また、これは、師さんのお考えのことと関連しますが、「のこす」ということの意味。モノ(例えば書籍)であれば、そのモノをのこせますが、伝統芸能のような場合、「のこす」とは、いったいどのような行為であるのか。

原点にたちかえれば、「のこす」ということは、「のこすべきものをえらぶ」ということと不可分ではないのか、と思えます。のこせるものには、物理的限界がある、ということを前提にしないといけないのでは。

當山日出夫(とうやまひでお)