Thursday, February 23, 2006

時雨殿を見学して

情報歴史学研究会の遠足企画として、時雨殿を見学するため、嵐山まで行ってきた。任天堂山内さんが多額の寄付をして完成したとのことであり、展示の開発には同社の技術が投入されていると聞き、期待が高まる。京福の嵐電駅に集合して、保津川沿いにちょっと歩くと到着。保津川沿いの極めてよいロケーションである。オープンしたてということで、まだ未完成な感じのところもあるが、ともかく中へ(土足厳禁)ニンテンドーDSをベースにした端末を受け取って、恐らくは一番の目玉であろう一階のアトラクションへ。

足下に広がる京都の空中散歩は壮観である。しかも、これが単なる航空写真ではなく、車や電車が走り、川は水しぶきをあげ、鳥が飛んでいる等々、かなり細かく作り込まれているのには、プロの仕事じゃーと感動する。端末で百人一首関連の史跡や京都の名所を指定すると小鳥がその上空まで案内してくれる機能もある。これを普通のブラウザ上でやったらなんてことのないものであるが、「大画面の上を歩く」というギミックがかなり楽しませてくれる。しばらくすると夜の画面になり(夜景がきれい)、一瞬、平安京の古地図みたいなもの(写真)が出たり、五山の送り火の(ゲームのエフェクトみたいな)CGが出た後、大画面をいっぱいに使ったカルタ取りになる(そしてまたしばらくすると、空中散歩に戻る。以下繰り返し)

カルタはカルタなのでそれなりにおもしろいが、しかし、空中散歩については不満も多い。せっかく史跡の上空まで連れて行ってもらい、そこを拡大して表示しても、史跡などの名前と2, 30文字程度の情報、歌人関係であればその和歌の朗詠などが得られるだけで、それ以上深い情報は何も得られない。

同様に、平安京の画像がほんの十数秒(計ったわけではないけど、そんな印象)で消えてしまうのは残念至極。私たちを含めた来場者の多くは、「お、花大はここだ」とか、「ここな、ここな、うちが出た小学校やねん」とか、要するに現代の京都の地図を楽しんでいるだけで、小倉百人一首のアトラクションを楽しんでいるという意識が希薄ではなかったろうか。そもそも、小倉百人一首の編纂において嵐山にゆかりがあるだけで、歌人たちは飛鳥やら奈良やらいろいろいたわけなのだから、京都の空中散歩をする必然性もあまりないと言えばない。現代の京都の空中散歩と、小倉百人一首の編纂された当時の文化や、収録された和歌そのものまでを連続させるには、もう何段階か橋渡しとなるようなコンテンツが必要ではなかったろうか。

そうでなければ、このような高度なデジタル技術を駆使してせっかく百人一首の世界の入り口までつれてきたとしても、結局のところ「マリオを探すのが一番燃えた」みたいな思い出だけを持って帰る、みたいなことにはなるような気がする(ただ、百人一首云々を抜きにして、単なるゲームとしておもしろいか?と聞かれても、全体的にうーむ、といったところで (^_^;; ちょっと微妙。カルタ取りがもうすこし長い時間できると、グループでの勝負が熱くなるような気もするが、どうだろうか)

もっとも、この時雨殿を建てた財団法人 小倉百人一首文化財団(京都商工会議所の120周年事業だそうで)のキャッチフレーズが「新たな日本文化の創造」であることを考えると(実際、この財団のフォーラムでは、百人一首の枠を超えたコラボレーションが展開されているようだし)、このアトラクションも何か新しいものを生み出そうとしているのかもしれない。アートの大切さで述べたような問題について、また色々考えさせてくれるという点では、収穫も大きかった。

他にも色々あったけど(非デジタル系では、愛国百人一首が面白かったな)、また皆で見に行きましょう。批判的なことばかり書いちゃったけど、学術系データベースの質実剛健な (^_^;; 外見を見慣れた目には、あの高いクオリティは感動します。

Sunday, February 19, 2006

Trackback機能を追加

学友にしてグルメの先達であるぱーどれ氏のお勧めにより、Haloscan.comが提供するトラックバック(の受信)機能を追加した。「Link to this post」の機能を使えば似たようなことをやってくれるんだけど(多分Google先生が うまいことやってくれる)、普通のトラバがあってもいいかなーと思ったのと、フリーのサービスを試してみたくなった(卒論の研究用に使えるかもよ>H君)のもあって追加してみた。

ところで、前からあたためていたネタではあるものの、通常の歴史学の「常識」からはわかりにくいテーマであるため書くことに正直ちょっと抵抗もあったアートの大切さという投稿が、思いのほか反響があったのはうれしい限り。

Saturday, February 11, 2006

口述試問終わる

情報歴史学ゼミの卒業論文の口述試問が終わった(他のゼミはまだやってるけど)。メーリングリストで服装の話が流れたせいか、大半のゼミ生がスーツを着ており、事情がわからない他の先生は奇妙な印象を受けたようだ (^_^;; 「(情報歴史学コースは)マニアックなやつが多いから(スーツを着てくるやつが多い)」とおっしゃっていた先生もいたが、それは誤解です (^_^;; >某先生

それはともかく、今回の口述試問如何では卒業ができない可能性もあるうえ、普段はあまり接することのない副査の先生もいらっしゃったおかげで、ゼミ生諸君は結構緊張していたようである。実際、副査の先生方には、私が普段はしないような指導をいろいろして頂くことができ、非常に有益だったと思う。しかし、それらの条件を除けば、普段ゼミの中で要求していることを、口述試問の場でも再度、要求したにすぎない。
  1. 適切に問題を形成できているか?(問題意識、研究史の批判、要求の分析など)
  2. 問題を解決するための方法は適切か?(対象や方法のモデル化など)
例えば、これまで多くの研究者がすでに言っていることと同じ結論を出しても(こういう卒論はなんと多いことか!)、1つ目の要求を満たすことができないので、当然そこには色々と文句を言うことになる。どんな小さなことでも、これまで一度も問題になっていない、しかもそれを解決することが世の中が少しでもハッピーになるような問題を自分で作り出し、それを皆が共有できる形で文章にするのが卒論の第一歩なのである(これについては卒業論文を書くということとレヴィ=ストロースで書いた通り)

また、例えば書誌データベースを作る際、誰が利用するのか(研究者?学生?一般の人?)、どんな用途に使うのか(検索?研究史の分析?)などによって、使うソフトウェア、属性やらインターフェースやらの設計などが概ね決まってくる。目的に必要なさそうな項目があると、本当に対象について考えているのか?解決すべき問題について理解しているのか?という疑問を持たざるを得ないわけで、そこをゼミ発表や口述試問では突っ込むわけである。

今回提出された卒論に関しては、このブログで簡単な講評をしたいと思う。乞うご期待。

Wednesday, February 08, 2006

アートの大切さ

よその人が作ったデータベースを使ってみたり、自分で実際にデジタルコンテンツを作ってみたりすると、中にどんな情報があるか?ということはもちろん重要だが、使い勝手とかボタンの色とか、インターフェースの部分が非常に気になったりする。

「情報歴史学は歴史学だ!」と標榜している以上、第一に重要なのは歴史情報であり、第二に情報技術が来て、インターフェースなんて表面的なものは二次的、三次的なものだとも言える。実際、歴史の勉強が不足していれば、データベースを使っても歴史情報の質や量に不満は出ないわけで(わからないから)、インターフェースばかりが気になる人は、自分の勉強不足を疑ってもいいかもしれない (^_^;; 逆に、ある程度質が保証されているデータベース(東大史料編纂所のやつとか)でも、質についてはあまり問題視しなくなるため、インターフェースが気になってくる。

インターフェースは本当に二次的なものだろうか? と書くと、「いや、インターフェースだって結構大事だぜ」という結論を導きそうな話の流れだが、実はちょっと違う。「情報の質や量を充実させたり、最新技術を使ったすごいシステムを作っても、誰も使ってくれずに死屍累々という状況が最近続いている。そこから、『インターフェースとかって結構大事なんじゃないか』と皆がうすうす感じるようになってきた」というのが正確か。

とは言え、死屍累々が経営に直結する所謂IT業界では、この「うすうす感じる」現象がかなり前から起こっていて、「アートとテクノロジー」なんてイベントは割と頻繁に行われている。そう、モノがどういう風に並んでいたり、どういう風に体を動かすと気持ちいいのか?とか、人が集まるってどういうことだろう?とかを真剣に考えて、実際にモノや人を動かしてきたのはアーティストさんたちなのである。最近いろいろな分野でアーティストと研究者とのコラボレーションがはじまりつつある。

でも、残念なことに、歴史学をはじめとする人文科学では、このようなコラボレーションはまだ少ない。もちろん、例えば美術史のように、アートやアーティストを研究対象としてきた学問はたくさんあるし、そこで蓄積されてきた方法論や議論は極めて重要だ。でも、美術史の先生は基本的に論文しか書かない(いや、作品を作る人もいますけどね)。情報歴史学は、インターフェースを作って使ってもらわなければ始まらない(同じように、博物館とか図書館とかも、インターフェースというものが意識されなければならない分野であろう)。そういう意味では、歴史学の中で一番アートに近いのが(というか、アートしなければならないのが)情報歴史学なのだ!と言えるかもしれない。少なくとも、大きな課題であることはまちがいない。